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レレレノレコード

FELA KUTI Shuffering And Shmiling

FELA ANIKULAPO KUTI AND THE AFRIKA 70

SHUFFERING AND SHMILING


1978 Phonogram, Nigelia
PMLP 1005

<TRACKS>
-Side 1-
Shuffering and Shmiling (Part 1) [12'09"]
-Side 2-
Shuffering and Shmiling (Part 2) [9'46"]
 1997年8月2日。ひとりの偉大な黒人ミュージシャンがこの世を去った。フェラ・アニクラポ・クティ(Fela Anikulapo Kuti)。マイルス・デイヴィス、ジェイムス・ブラウン、ボブ・マーリィと並び称された、ブラック・ミュージックの真のリーダー、表現者であった。しかし彼等3人と比べ、フェラの一般的な知名度は低い。その理由は単純だ。彼が生涯にわたり母国ナイジェリアから弾圧を受け、その弾圧と戦っていたからだ。

 1938年、ラゴス近郊で生まれた彼は、当時の宗主国イギリスに留学し、アメリカにも滞在する。そして独立後政情不安に陥った母国に戻り、60年代後半より爆発的な創作活動が始まる。そして弾圧。150万人の餓死者を出した悪名高いビアフラ内戦、85年までの20年間で5回起きたクーデター。正義の無い中で、彼は告発し、弾圧された。74年投獄、77年軍隊による家の焼き討ち、84年再び投獄。その間、残したレコード70枚以上、レコーディングした曲は演奏しなかったというライブ無数、ついでに妻の数27人。異常なまでの創作量は、彼にとって音楽が戦いの武器であったことの何よりもの証明だ。

 85年以降、一時は平穏を取り戻したナイジェリアだったが、93年に7回目の軍事クーデターが発生、劇作家ケン・サロウィワ氏の処刑を始め、人権無視の強権政治となり現在に至っている。フェラもライブ活動は行っていたようだが、クーデター以降レコードは出せずにいた。96年には狙撃、拘留を受けた。そして昨年、AIDSが彼の命を奪った。

 ジャマイカに後押しされたボブ・マーリィは別格としても、マイルスもJBも活動の自由が保証された中で戦った。しかしフェラは自由とも戦わなければならなかった。出国さえ認められていなかったと聞く。
 そして戦い半ばでの死・・・・・・。いつかナイジェリアとアフリカに平穏が戻り、そしてフェラが世界で正当に評価される日がくると、オレは信じる。

 フェラの音楽はアフロビートに裏付けされたジャズ・ファンク・ミュージック。(母国での弾圧にもかかわらず)日本でも海外でも多くのアルバムが出ているので、どのアルバムでもいい、ぜひ一度聴いて欲しい。

※11/1のイベント(表紙ウラ参照)で、小林径さんかオレがフェラの曲を回します。 聴きに来て下さい。(harumo)

<「IM... identity market 14号」(1998.11.1.発行)より転載>


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