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IM32 SHU


〔テキスト版〕

正義と悪

テレビにはいつも正義の味方がいた。
正義の味方、正義の味方は僕を助けてくれる。正義の味方が悪を退治してくれる。僕にとっての悪だし、社会にとっての悪を倒す。正義は勝つ。
やっぱり、私から見た正義であり悪である。社会にとっての悪かもしれない。でも社会にとって悪だと判断しているのはこの私だ。どこかで、正義と悪を判断している。結局のところ私にとっての正義であり、私にとっての悪である。

タリバンにとってアメリカは悪であり、タリバン自身は正義の聖戦(ジハード)。アメリカにとってオサマ・ビンラディン氏は悪であり、アメリカは彼らに正義の鉄ついをおこなっている。キリスト教とイスラム教の宗教戦争ではない。どこまでいっても、正義と悪は私のなかにある。正義と悪の決定権をもう一度考えていきたい。私はこの合理主義の中で生まれ育った。合理主義社会の中では、正義か悪かの立ち場を決めなければならない。そしてたいていの場合は私は正義に属する者であり、正義に味方される者である。悪は私の外にあり、社会にあり、人であり、環境である。では私は果たして、悪ではないのか。もし、私が悪だと思えたとしても正義はどこにあるのだろうか。

正義と悪はけっして分かれてあるものではない。ときどき正義感として現われたり、悪智恵として悪も私に現われてくる。ということは私は正義も悪をも持っている。正義も悪も、私の中の何かが決めていると思う。アメリカが正義でビンラディン氏が悪かは、私が正義であるのか、今の社会が悪であるのかぐらいわからない。
私は正義であり、悪である。

テレビにはいつも正義の味方がいる。正義の味方は、悪を教えてくれ、道徳を教えてくれる。でも私の中の悪は、私にいろんなことを気付かさせてくれ、こんな恐ろしい心があったのだと知らせてくれる。でも、かといって私は正義であろうと思うことはない。私は悪であり、私のなかに正義があるからだ。私の外に悪はないし、私の外に正義はない。ただ外にあるのは私の心がつくりだした正義と悪ではなかろうか。

SHU(green)


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