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IM32 池田 美樹


〔テキスト版〕

『勧善懲悪』

正義の味方が悪役を倒す。
ほんの二十年くらい前までは、そんな構図が成り立ってた。
マンガでもドラマでも、意識の中でも。
そんな構図に疑問を持ってる子供達がいた。
そんな人たちがオトナになって、「理由のある悪」を描きはじめた。

やがてオモシロい作品がいっぱい生まれてきた。
勧善懲悪の最後の砦『水戸黄門』すら構図が変わった。
そして人々は混乱し始めた。

「一理ある」。
そこに気付いちゃうと、闘えなくなる。
アイツ、ムカつく!
でもそんなアイツも、実はいろんな事情を抱えてたりして、
それに気付いちゃうと攻撃しにくくなる。
「悪」だと一概に言えなくなって、アイデンティティが混乱してくる。

でも、闘いたい・攻撃したいって感覚は、精神の根源から消えない。
「命を賭ける」って、一見すばらしい犠牲精神に聞こえるけど、
実は皆が抱えてる「極々私的な恍惚感」なのかもしれない。

(日本だけを見れば)情報は増えた。教育も変わった。
第二次大戦時のような、国全体が盲目の一体感に浸る危険は避けられるのかもしれない…と思ってた。
でも今、あの(運動会や文化祭前の感覚にも似た)「幻の一体感」に焦がれてる人達が、確実に増えてる。カリスマ的な吸引力を求める空気が強く漂ってる。

ちゃんとしよう!と頑張るほどに、抑圧された闘争心がふつふつと滾りだす。
その滾りが、危険な一体感や吸引力を呼び叫ぶ。
やさしく理性的であろうとする床下で、自分でもコントロールできないような、悶々としたものが沸騰する。
だからこそ『自分の正義』を探し、打ち建てておく必要があるんじゃないかと
強く思う。

「一理ある」。「でも、相容れられない」。
悪ではない。でも、敵。
双方の事情がわかっていても、敢えて闘わなれけばならない状況がきっと、ある。そこで愚かな言動をしないためにも『自分の正義』は探し打ち建てておきたいと思うよ。

少なくとも私の考える「悪」は、
己が正義を打ち建てる努力もせず、他人の言葉や勢いを借りている人たち。
文句言うことが「批判」だと、カッコいいと思ってる人たち。
「悪」…というより「悪疫」。
そんな人たちを見聞きするごと、私の中の正義がふつふつと滾り、
「命を賭けて」ブッつぶしたい闘志にかられちゃうゾ(笑)。

                              池田美樹/劇団きらら代表


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