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不乱苦雑記 frank zakki fz11
「ひきこもり(前編)」

 2001年11月18日。午後11時。
 オレはとある場所に向け独り車を走らせていた。しし座流星群。4年前から「日本で大発生」の期待を裏切ってきた、この「天体ショー」を見るために。

 キャンプが好きな人や夜道を走る人なら知ってると思うが、流れ星自体は別に珍しいものではない。
 流星群だって偶然遭遇する事もあるぐらいよくある事象だ。だから今までの流星群騒動も冷めた目で見ていた。ましてやわざわざ見に行こうなんて一度も思わなかった。

 だがしかし、今夜は突然行きたくなった。
 何かが起こる予感がしたのだ。

 国体道路から大津を抜けてミルクロードへ。
 二重峠を一気に登り大観峰へさしかかる。
 道端のあちらこちらに車が止まり、人がいる。
 実はこのあたりじゃまだたいした星は見えない。
 アクセル踏み込み、やまなみ道路へ。
 そして枝道、そのまた枝道へ。
 もう誰もいない。
 そしてようやく、とある場所へと辿り着く。
 ひとりになる時いつも来る、オレとっておきの秘密の場所だ。

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 2001年秋。あの忌わしい事件がニューヨークで起きた。そしてレノンの「イマジン」が放送禁止になり、「十字軍」を呼びかける大統領が治める国が、「聖戦」を呼びかける指導者が隠れる国を爆撃した。世界一豊かな国アメリカ合衆国が、世界一貧しい国アフガニスタンを爆撃した。

 オレは製作中だったIM32号のテーマを「正義/悪」に変え、次号のテーマを「神/人間」と定め、11月1日、休刊宣言とともに世に出した。

 「十字軍」と「聖戦」。
 「神」とは即ち人間が自ら求める理想の姿。
 それなのに、
 なぜ「神」を信じる者同志が対立するのか?
 なぜ「神」を崇める者同志が殺し合うのか?
 「神/人間」・・・神と人間の在り方に何か大きな過ちがあるのではないか?
 オレは漠然とそう考え始めていた。

 Z

 光の雨が降っている。
 心音が聞こえる程の静寂の中、夜空いちめん降っている。
 切れ目なく全天じゅうに降っている。
 数だけじゃない。長さも明るさも桁違いだ。
 ゆらぎながら流れていくもの。
 何秒たっても光っているもの。
 信じられない流れ星も降ってくる。

 大地の上に寝転がる。
 標高およそ900メートル。おそらく気温は氷点下。
 眠ったら凍死だぞと心に命じ、毛布を重ね寝転がる。
 視界いっぱい夜空が広がる。遮るものは何もない。
 満天に輝く星の合間から、光の筋が次々現われ、四方へ流れ散ってゆく。
 宇宙に吸い込まれていってしまいそうだ。

 Z

 オレは神と向き合っている。
 光の雨でずぶ濡れになりながら、オレは神と向い合っている。
 もちろん他には誰もいない。

 これからオレはどうすればよいのですか?
 この地球の上で、
 この宇宙の中で、
 いったいオレは何をしてゆけばよいのですか?

 ・・・・・・神は何も答えなかった。
 いや、
 「もっと神と向い合いなさい」
 沈黙を以って神は答えた。

 Z

 しし座流星群はテンペル・タットルと呼ばれる彗星が太陽に近づいた時に発生する。彗星が太陽に接近するのは33年に一度。しかし接近するだけでは起こらない。そこに地球の軌道、そして遠く離れた木星の引力が深くかかわる。さらにこの彗星が過去に通過した時に生じたダスト・トレイルと呼ばれるチリの集まりが関係し、このチリが流れ星になる。過去と言っても33年前ではない。今回の場合1699年と1866年。つまりこの流星群が出来るまで300年かかったということだ!

 流星群のしくみはまだ完全には解明されていない。上記の理論が正しいだろうと認められたのも2001年。まさにこの流星群の出現予想の的中によってである。

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 光の雨は降り続く。
 『2001年宇宙の旅』・・・延々と光が流れ続けるだけの、あの有名なラスト20分。あのシーンが頭に浮かんだ。(そうだ!今はまさに2001年なの だ!)

 後で知ったことだが、キューブリックとクラークがこの映画を世に出したのは1968年。その2年前、製作中の1966年に、アメリカで“史上最大”のしし座流星群が発生している。そういえばキューブリックはニューヨーク出身。そして宇宙船「ディスカバリー」の目的地は木星だった。

 当時の理論では次のしし座流星群は1999年。「2001年」は偶然の一致だ。「木星」も偶然。「ニューヨーク」ももちろん偶然だ。蛇足だがオレの名前も反乱するコンピューター「ハル」とは関係ない!(死んだじいさんに確認はしてないが・・・)

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 夜が明けてきた。光の雨も小降りになってきた。

 人に自我というものがある以上、「神」はひとりひとりの人間の内側にしか「存在」しない。そして同時に、その「神」は「存在」を超えて宇宙の万物とつながっている。いや、宇宙の万物そのものである。

 「神」はひとりひとりの人間の内側にしか現われない。
 「自我」の中にしか「存在」しない。
 「神」と向い合う時、人は孤独を自覚する。
 「己」の内側。「己」の外側。
 万物は2つにしか分けられず、その間には何もないのだと自覚する。

 そしてその孤独に耐えられなくなった時、「己」は救いを「外側」に求めた。
親と、子供と、兄弟と。そして仲間と「神」を共有しようとした。
・・・・・・そしてそこに、宗教が生まれた。

(つづく)


2003.5.30. 宮原 春萌(identity market 代表)
<「IM... identity market 33号」(2003.6.1.発行)より転載>

 

●解説●
後編は『IM』復刊号に掲載いたします。(2004.2.26)

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